美しいダリアの花でも見続けると飽き、久しぶりだと新鮮に見え

前回、支柱の役目をしていない丸太の杭の立っている、ほったらかしのダリア畑は、自然な風情で懐かしさや郷愁で共感を誘い、さらに滅びの美学のような儚さに惹きつけられるのでは・・・。

 栄えたものが滅びて無くなっていく哀れな様子は、思い出や印象として強く記憶に残り、このプロセスには、共感する要素が多く含まれ、共感する度に懐かしく蘇ることになる。

 他方、フラワーパークの支柱に支えられたダリアは、花の美しさに期待して来園した人達が感動し満足することを目的にした花づくりなのだろう。

 このような花づくりを放棄したのが、前者とも考えられる。 いずれの場合も、花の美しさで癒しや感動を伴っている。ただ、情景の違いが琴線にふれるポイントの違いとなっているだけで、どちらにも、癒しや感動する、と想っている。

 何故、こんなことを、ぐうたら書いているか、というと、私は今創業準備中で"楽しい面白い工業製品化したステンドグラスで癒しや感動サービス"の経営戦略で、癒しや感動について、実際に花の写真を撮り体験しながら学びステンドグラス作りに活かしたい、といろいろ試行錯誤している最中なのです。

 ときに、今回は、ほったらかしのダリアの花を、丸太の杭を除外して撮ってみた。

 フラワーパークでも時折見受けた、支柱からはみ出したような光景。青々とした背景だけの違いだが、これが自然らしさに大きく影響しているようだ。

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 手入れの無い、素顔の自然さを感じた場面。人間の心は複雑だ、美しいものでも見続けると飽き、久しぶりだと少し変でも新鮮に見えるものだ。

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 そっぽを向いている花にも自然らしさを、感じた。

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 個々の花の美しさというより、自由に、勝手に咲いている全体のイメージが、ホッとする癒しに通じる。

 このほったらかしのダリア畑で、際立って美しくさいていた一輪に目を奪われた。

この美しさは、支柱の有無に無関係の花本来の美しさに見える。

 ぐんまフラワーパークで撮りたいと考えていた支柱の写らない写真のイメージ、と同じだ。

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 黒を背景にしたダリアの花は、あまり撮っていない、と思いパチリ。やっぱり、支柱の写らない人工的なものを排除した写真が自然らしくて良いな、と再認識した。

 前回の記事、支柱の有無から始まった文脈だったが、支柱があっても写らない写真が良い、の結論に落ち着いたようだ。

 ぐんまフラワーパークのダリアの花も、背が高くなり支柱を越えると、青空を背景にした支柱の写らない写真が沢山撮れるようになる。もうすぐだろう。

 ときに、ハローグラスでは、花図案に始まるステンドグラス加工品の美のおもてなしで、癒しや感動サービスを提供し、楽しくて心健やかな生活を応援する感性ビジネスを考えている。

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投稿日:2016年10月18日